そして、

昔、十数年前に、ある人と別れた。
彼女のことが好きだったが別れた。

彼女が精神的に楽になると思ったからだ。

それも、私の可哀想な自分からの答えだったのだ。

彼女と別れることは彼女にとってすごく可哀想なことをすると同時に可哀想だと思う自分との訣別でも有ったのだと今は、思う。

それで、何年も悔いた。

その時間は必要なかったのだ…。

可哀想な自分からの衝動がそれをさせていたのだ。

そのことも今は、受け入れている。

昔から

捨て犬とか捨て猫がいると気になっていた。

猫は何匹か拾って飼っていたこともある。

今、帰りに野良犬が寄ってきた。

それで、思い出した。

十数年前は、伊豆高原で捨てられていた子犬たちを名古屋に戻ってきてから拾いに行ったこともある。

その衝動はどこから来るのか…

自分の中にある可哀想な自分からだった。

可哀想な自分からのメッセージを感じて動いていたのだ。

その行動はまずい訳ではないが、それが衝動だとしたら、まずいときもある。

可哀想な人を見て助けたくなる気持ちは誰しもあるものだからだ。

自分から何かわからない衝動は、はっきりした方がよいのだ。

いま。

いまから思うとずっとしあわせだった。
そのときどきには気づかないだけのこと。
振り返るとそんなことに気づく。
不幸せなことなんてありはしない。
ただしあわせなことに気づかないだけ。

心の中の井戸

そこは、悲しみで満ちている。

過去のいろいろな感情が悲しみに満ちている。

その悲しみに気づいたときに

人はそれをどう感じるのだろう。

そのままないものとして気づかないふりをするのだろうか…

その悲しみを感じて、悲しみに支配されるのだろうか…

悲しい出来事があった。

そして、それは、本当の愛を知るための試練だった。

悲しみを感じて、受け入れて、それを愛に変えることができる。

人には、それだけの能力があるのだ。

私の過去の悲しみよ

あなたを感じて生きていきます

それは私があなたを、あなたとともに生きていくことの証

あなたがいてくれるから今のわたしがある

あなたとともに生きていきます。